「立ったままで小便をするな!」と言われて、「はい、そうですか」と答えたとしたら、そいつはオカマンポ尾釜田その人である――そんな噂を僕が初めて耳にしたのは、つい先日のことであったと思うのだが、あなたはどう思うか? 僕はその日、いつものように公園通りを、粋にセンシティヴに、流行の最尖端をファッショナブルに身にまとい、1人静謐さのなかを、ビューティフルに逍遙していた。公園通りの午後は麗らかな春の陽光に照り映えて、行き交う人びとの表情も華やぎ、都会の雑踏と喧噪はあまりにも健康すぎた。そしてこの健康過剰の公園通りは、インテリの苦悩と懊悩を一身に引き受けた僕との対置によって初めて意味をなし、その raison d'etre を顕在化するのである。 ああ、知識人! この出口なしの実存の叫びは、今のこの僕にこそ似つかわしいというものだろう。原体験とか喪失感とかいう台詞が、臆面もなく使えるのは、唯一、今の僕にだけ許された知識人の特権なのだ。そうだ。そうなのだ。 ああ、知識人! ああ、知識人! そのとき僕は、あろうことかあるまいことか、突然尿意を催した。僕のような高貴な人間でも、たまには小便くらいはするのである。信じられないだろうが本当である。嘘だと思ったら見てみるといい。僕は辛抱堪らず、便所を求めて、PARCOへと飛び込んだ。手洗いのなかにはTOTOの純白の便器が列をなして並んでいた。先客がすでに1人いた。彼は居並ぶ便器のその1つにまさに取り組んでいた。彼の恍惚たる表情はありとある放尿のエクスタシーを体現し、醜く歪んでいた。 「立ったままで小便をするな!」 僕はパンツのジッパーをずり降ろし、快く透明の液体を尿道から絞り出しつつ、彼に怒鳴った。彼は「はい、そうですか」と羞恥心のただなかでへりくだることもなく、「何だなんだお前は何だ!」と青筋立てて激昂し、僕の鼻筋を張り飛ばすこともなかったのだが、かといってさめざめと泣き崩れることもなかったし、ワライカワセミに変身して、ケラケラと笑ったりもしなかった。彼はこう言ったのだ。 「あなたの瞳は海に似ている。あなたの瞳の海のなかで、私は溺れてしまいたい」 ああ、そのとき僕は直感したのだ。2人の愛の遍歴が、今ここに始まるのを――。2人の出逢いは永遠で、愛は不滅なのだ。僕の双眸はラ・メールの深みと優しさを湛え、僕は彼の総体を快く受容した。 「あなたは愛をどう考えますか?」 僕は彼の恋に潤んだつぶらな瞳を熱く見つめて、そう訊ねるのだった。2人の視線は闇夜を貫く稲妻のように妖しく燃えて絡み合い、まるで時間は静止したかのようだ。 「愛とは堪えることではないのでしょうか? 己の溢れるような醜さをじっと噛み締め、悶々と堪え忍ぶことではないのでしょうか?」 「堪える?」 「そう、堪えるのです。一生懸命、地に足踏ん張り堪えるのです。忍ぶすべなく佇むのです。一生懸命は人民の最低限の揺るぎなき原則なのですから」 僕たちは公園通りを肩を並べて散歩した。通りの両側には瀟洒なブティックやレストラン、そしてコオフィ・ショップが立ち並び、車道にはクルマが溢れんばかりだ。山手教会の前に集うティーンエイジャーの一群がスウィング・ジャズのリズムに合わせてジッタバグを踊っている。メロウにそよぐ春風になびく彼の緑なす黒髪に陽春の光が眩いばかりだ。細い首に巻きつけられたロージイなバンダナがよく似合う。化粧はほとんどしていない。だがその清楚な顔立ちを僕は美しいと思う。
僕は少女趣味の便箋にローズ・カラーのインクでしたためられた彼の可愛らしい手紙を読んで思わず微少を洩らした。それはまるでじゃれつく仔猫のようにあどけなく、薔薇のように可憐で愛くるしい。僕はそれに頬ずりしたくなる衝動を抑えきれない。涎こそ垂らさなかったものの、今月号の「薔薇通信」を取り出して1人自慰に耽った。 男とは? 男の愛とは? 男の美学とは? ホモセクシュアリズムとはいったい何なのか? 男が男を愛することははたしていけないことなのか? それは背徳であり、インモラルなことなのか? インモラルとアモラルとはいったいどこがどう違うというのか? この世が予定調和に支配されている限り、インモラルなどというものがはたして存在しうるのか? 僕はある倦怠感を覚えて「薔薇通信」を閉じた。暮れなずむ天空は薄く夕闇を曳いて窓の外に拡がっていた。ウーファーから響くアルフォンソ・ジョンスンに耳を傾けるのだが、マフラーをはずしたオートバイのイグゾースト・ノイズにそれは掻き消されてしまう。僕は窓を締め切り、ノイズを遮断した。低く唸るベースのソロが耳に滲みいる。そして僕はある悲壮感のただなかで深いまどろみを眠った。 僕は夢のなかで詩人だった。愛を謳う幻想詩人だ。そして中原中也ばりに「宇宙の機構悉皆了知」などと不埒なことを叫びつつ、こんな詩を口ずさむのだ。
深いまどろみのただなかで悪夢のような悪夢を夢み、そして確かな覚醒を昇りつめたとき、それはすでに土曜の昼過ぎだった。僕はベッドを跳ね起き、急ぎ身じたくを整えると、新宿駅へと足早に向かった。 その日も新宿駅は噎せ返る人いきれのなかを人びとの雑踏と喧噪に揉まれるようにして佇立していた。大量の群衆が吐き出され、それとほぼ同数の人間がそのなかへと呑み込まれていった。僕もその群衆に溶け込むようにして改札をくぐった。 「ムキンポくん!」 そのとき肩越しに突然声をかけられ、僕は後ろを振り返った。見るとそれは・・・・・・ つづく |