重信メイ☆『AERA』 & 重信房子裁判傍聴


2001/11/29 早稲田にて


 今日は「重信房子さんを支える会」の集まりがあって僕も初めて参加した。
 先日、トップページに「重信メイさんの講演会が12月にあるらしい」と告知したが、準備不足でどうやら期日が延びるらしい。形態も講演会という形ではなくなるらしい。
 上の写真は先日発売の『AERA』にメイさんにアラビア文字でサインしてもらってるところ。「ムキンポさんへ 重信メイ 2001/11/29」とか何とか書いてあるらしい(→■)。
 明日(11/30)は重信房子さんの公判が東京地裁で午前10時よりあるということだ。9時30分頃までに行けば傍聴できるらしい。明日、都合がつけば僕も行くつもりだ。
 (2001/11/29)


公判傍聴券  警備員の手


 今日は早起きして午前中の雑事を手早く片づけ、9時半少し過ぎに裁判所に着いた。傍聴券をもらう場所がわからずに館内を少し探したが、受付で訊くとすぐに、1度外に出て右側、と教えてくれた。すでに20人くらいの列ができていて、9時40分に並ぶと同時に傍聴券を配り始めた。廷内にはカメラは持ち込めないだろうし、傍聴券もたぶん回収されるだろうと予想して、とりあえず記念にと傍聴券の写真を撮っておいた(上欄左側)。荷物を預ける前に104号法廷の脇の壁に貼られていた重信裁判の案内の掲示を撮影しようとしたら、警備員に阻止された(上欄右側)。撮影禁止は廷内だけかと思っていたら、館内は全面禁止らしい。TVでは裁判の始まる前の裁判官の様子などを撮影して放映しているが、一般と報道とでは扱いが違うのだろうか。
 荷物を預け、身体検査を済ませて、待合室というか廊下みたいなところでしばらく待たされた。10時ちょうどに入廷した。104号法廷は東京地裁で一番でかい部屋と聞いていたが、実際に入ってみると、想像してたよりかこぢんまりとしていた。傍聴人の数は40〜50人はいただろうか。半分は空席だった。報道関係者の席にも1人しかいなかった。

 何も予習していかなかったのは失敗だった。開廷してすぐに証人が招き入れられたのだが、まずこの人が誰だかわからない。弁護人の大谷恭子弁護士が質問というのか尋問というのかを1時間くらいつづけたのだが、知らない人名や様ざまの固有名が次つぎと出てきて、何について語り合っているのかすらさっぱりわからない。「ニジサクセン」という言葉が頻りと出てくるので、ずっと「虹作戦」かと思っていたら、終わり近くになってようやく「二次作戦」らしいと気がついた。2時間近く公判がつづいたのだが、最初の1時間は弁護人からの質問、次の30分は検察官からの質問、そのあとの15分ほどが裁判官からの質問だった。最後に弁護人から再び短い質問があって、11時50分頃、閉廷した。
 本質的な議論としては2時間近くさっぱQの状態で、昨日、一昨日とあまり寝てなかったこともあり、途中で眠たくなったりもしたのだが、それでも周辺的なことでいくつか学んだことはあった。新聞などで「被告人」の代わりに「被告」と書いてある文章を読むたびに、刑事裁判では被告人、民事裁判では被告だろう、と思って内心バカにしてたのだが、この裁判の裁判官は重信房子被告人のことを被告と呼んでいた。裁判官が使っているのだから、被告人を被告と縮める用語法は間違った用語法とはいえないだろう。知ったかぶりはするもんじゃないと思った、など。
 そのあと隣りの弁護士会館の9階で大谷弁護士から今日の公判についての説明があった。いろいろと質問したいことはあったのだが、僕が質問を始めたら最低30分は必要だと思い、よくわからないまま黙っていた。そのあと農水省の地階でメイさんたちとカレーを食べて、僕は1時半までに帰宅する必要があったので、挨拶して途中で退席した。
 次回公判は12月12日(水)午後1時15分の予定。
 (2001/11/30)

 追記というか、書き残したいくつかの点:
1. 重信房子さんは公判の間中、休みなく机に向かい熱心にメモをとっていた。2000年11月、大阪府高槻市で逮捕され東京へ移送されてきたときの満面に笑みを浮かべ両手を挙げてポーズした東京駅での颯爽とした姿が強く印象に残っていたが、そのときと較べるとちょっとやつれた印象だった。
重信房子    重信房子
2. 農水省の地階の食堂は、メイさんがそこのカレーがおいしいからみんなで食べに行こうと言って誘ったのだが、値段は安いが、正直なところ、そんなにおいしいとは思わなかった。農水省の入り口には入館者は身分証の提示をするよう掲示してあり、実際、提示してから入館している人もいるのだが、僕たちに身分証の提示は求められなかった。ちなみにカレーはビーフ・カレーとポーク・カレーと両方あった。
3. 『AERA』2001.12.3号に
 メイにとって、大人は誰もが母であり父のようなものであった。3歳のときにみどりが、8歳のときにつよしが生まれ、きょうだいのように育った。
とあり、『創』2001年6月号には
 私たち3人きょうだいの名前なんですが、妹は「革(あらた)」、弟が「強(つよし)」で「強い革命」なんですよ。私は自分の名前が好きなんだけど、妹はあまり好きじゃなかったみたいです。
とあったので、「みどり」と「革(あらた)」との関係を訊ねたところ、どうやら同一人物らしい。
 (2001/12/01)


 さらに追記というか、訂正というか:
4. 今日、再び重信裁判の傍聴に行った。今回は前回よりいくらか余裕のある目で104号法廷の傍聴人席の配置を確認してきた。

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 □が報道関係者用、■が一般用の傍聴人席である。報道関係者用ががらがらであることは今回も変わりがなかったが、今日は一般用はほぼ満席の状態だった。全部で60人ほどいただろうか。この前、11月30日の公判の傍聴人の数を「40〜50人」と書いたが、改めて数え直してみると、30〜40人ほどであったかもしれない。

「オリーブの樹」創刊号

5. 前回はまったく予習していかなかったために公判の展開をほとんどフォローできなかったことを反省して、今回は前日までに手許にある「オリーブの樹」のバックナンバー(1.3.4.5号)の重信房子さんの手記すべてに目を通してから行った。房子さんの手記自体、ハーグ事件の何たるか等の予備知識のない僕には理解しにくい文章なのだが、それでも今回は前回よりかなり展開を理解できた。前回の証人尋問がその前からの継続であったのに対し、今回の証人尋問が第1回目であったことも関係していると思う。
6. 重信房子さんは今日も熱心にメモをとっていた。この前は「ちょっとやつれた印象」と書いたが、今日はそういうふうには見えなかった。もともと観察力がないのと、刑事裁判の傍聴は初めてなのと、こういうことでの僕の印象はあまり当てにならないと思う。
7. 次回公判は時間が変更になって2002年1月21日(月)午前10時より。
 (2001/12/12)


『AERA』 2001.12.3
現代の肖像
母の娘であること
大学院生 重信メイ
文=島崎今日子
写真=鷹野晃


p.71 p.70
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p.73 p.72
p.75 p.74


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