<パレスチナに献花を!>
桧森孝雄三回忌記念集会に捧ぐ
むしろ私などは
「桧森さん、もう一度生き返ってくれよ!」
と言いたいような時代になってきたと感じます。
バグダッドより
2004年3月26日
Wattan
<パレスチナに献花を!> 桧森孝雄三回忌記念集会に捧ぐ みなさんが日本で元気に活躍されていることと思いながら 私もこちらでは安心して活動しています。 日本では自衛隊のイラク派兵反対のデモとか集会で たくさん人が集まっている様子をムキンポさんのホームページで 確認することができます。 3月19日のバグダッド・ロケット攻撃の時や、20日の国際反戦集会の時には 私は残念ながらサマワでの取材活動に専念していたのでその件は報告できず済みません。 その替わり私はサマワで自衛隊宿営地建設に関する土地収用問題の取材が出来ました。 日本政府・自衛隊は現地の地主にたいして 『宿営地建設の跡は この場所に地元住民が働くことの出来る商店街や娯楽施設、舗装された綺麗な道路を造る』 などと口約束だけを交わして宿営地の建設に踏み切りました。 日本のメディアでは、 『地主との契約金の合意』 などと報じられたと思いますが 地主はあの人の他にも、あと5人も存在しています。 そして彼らとはまだ契約金の支払い金額で合意していないのです。 つまり今でも交渉が継続している状態であるにもかかわらず 自衛隊は"約束"自体を遅延させるとか 事によっては、うやむやにさせたまま反古にしてしまおうとさえしている節さえあります。 今はまだ忍耐強く交渉を持ち掛けている現地の地主たちも いずれは我慢の限界に達してしまうでしょう。 私はこのような土地の収容問題を考えると パレスチナの地でシオニストたちが行ってきた過去の土地収奪のプロセスを想起させられます。 連中もイスラエル建国以前には こうやってパレスチナ人の地主から土地を安値で買い取るとか 騙し取ったりしてきたのです。 そうやって長い年月をかけながら 自らのテリトリーを広げるために土地を手に入れていきました。 彼らも最初にパレスチナ人たちと交わした約束は 「街や農村の経済発展」でした。 それがいつの間にか 「建国のため」になってしまい 現在では「ゲリラを掃討する」などと言っては 大規模なジェノサイドを行っているではありませんか。 私はけして 今の段階で日本政府がサマワ市に 『植民都市の基盤』を造ろうとしているなどとは思いません。 それでも 日本が過去に行なってきた侵略の歴史を想起した場合 もしかしたら 私はある意味で 恐ろしい歴史的場面に立ち会っているような気がしてならないのです。 願わくは 現在のサマワ宿営地を警備している隊員たちの 地元住民への『牧歌的対応』が 豹変するような事態にならないことを私は望みます。 しかし もしこのまま日本政府・自衛隊幹部たちの策動による 地元住民や土地の地主に対して交わされた"約束"の遅延が長引くか 反古にされるようなことがあったら犠牲にされるのは 宿営地の周辺や最前部を警備している隊員たちなのです。 サマワ市街地の住民も例外ではありません。 彼らは今までは日本からの経済援助・インフラ整備を期待して 『日本歓迎ムード』を盛り上げてきましたが 失業者は雇用を求めて 市内在住の親類を頼りにどんどんサマワに集中して来る割には いつまで待っても一向に日本の企業が来る様子も無く 無職の男たちが市内にブラブラしているのです。 小規模な失業者デモは警察署や市役所前でしょっちゅう行なわれています。 市内の川に掛かっている橋は いまだに浮き船式の簡易的なもので 水かさが増すと橋が沈み住民は渡れなくなります。 住民向けの浄水設備の修理もいっさい行なわれていません。 その他にも 劣化ウランの被爆地域の処理などまったく手が付けられていません。 それどころかその場所はいつの間にか子供の遊び場になっていて とても危険な状態です。 治安の悪化もひどいものです。 米軍の輸送車両の列が幹線道路を走るときは 最後尾の車両からセキュリティのために兵士が機関銃の銃口を向けて 民間人車両は追い越しを禁止されます。 それでも緊急で追い越そうとすれば 警告射撃を受けます。 私は実際に 道路で射撃された運転手が死亡した現場に行きました。 車は蜂の巣状態にされて 運転手は瀕死の重傷のまま車外に引きずり出され 死亡するまでの約2時間 米兵が周囲を取り囲んで誰も近づけさせなかったのです。 また イラク市民防衛隊(ICD)の民間人銃殺事件も発生しています。 これら一連の「不祥事」に対して イラク警察はCPAにべったりの態度をとって ほとんどの事件を闇に葬ってしまいます。 戦後、大量にバース党関係者を追放して再編された警察も 人手不足のため新規採用者を10代の少年たちから徴集し 彼らを二十歳と偽らせて採用してしまいます。 しかも訓練期間がたったの2週間なのです。 こんな連中がCPAの権威を楯にして 銃を持って住民に威圧的な態度で接しているのです。 警察車両がゲリラに襲撃されるのもなんだか解るような気がするくらい 住民のフラストレーションは爆発寸前になっていると感じました。 なんだか、桧森同志の追悼会に向けた挨拶なのに 今のパレスチナやイラクの状況に鑑みたら まったく「追悼」出来ない事態になっていると感じてなりません。 むしろ私などは 「桧森さん、もう一度生き返ってくれよ!」 と言いたいような時代になってきたと感じます。 しかし私は今さら先達と同じ轍を踏むつもりはまったくありません。 私は私のやり方で 自分のやりたいようにやるつもりです。 みなさんも自分のやりたいようにやってください。 では、また! バグダッドより 2004年3月26日、Wattan |
Wattanのイラク現地リアル・レポート |